人の不幸を願うより、人の幸福を願うほうが楽なので死にたい
うつ病なのだろう。死にたいと思うことは多い。
でも、なんだか、ネットで「死にたい」と検索すると、私との温度差を感じます。
別のどちらが深刻といったことではなく、人それぞれなのだろうといったことなのだが、統計をとった訳ではないけど、自殺の理由は金銭問題と孤独が上位にあると感じます。
私の場合、散歩の寄り道や目的に、神社にお参りすることがあるのだが、晴れた気持ちの良い日で心が落ち着いているときには、一生懸命に足を引きづって参拝に来ているお年寄りなどを見ていると「この人の願いが叶うといいです」など、自分の境遇が不幸なくせに思ってしまうときがあります。もちろん偽善的な気持ちなんですが、普段「みんな不幸になれ」と思っているときより、人のことを思いやれている気持ちのときの方が断然楽です。
そう楽なんです。私の場合、人の不幸を願うより、人の幸福を願うほうが楽なんです。人の不幸を願うのは結構エネルギーを使います。ただ願うだけでです。でも、人の幸せを願うときはエネルギーを使いません(叶えてあげるときには、すごくエネルギーを使うと思いますが)。
また、私の知っているニートは、なんというか、ニートをこじらせてしまい、(変な表現なんですが、なんというか、自分は悪くない、悪いのは周りであり、社会だといった感じで会話すらままならない状態)この様にはなりたくないと反面教師に思っています。
ですので、私はまだ人に感謝する気持ちも残っているし、楽なまま死にたいと思う時があります。
無視をすることで解決することがある
図書館の学習室を利用することが多いです。平日の午前だと学生さんよりも定年退職されたであろう、お年寄りばかりです。午後になるとチラホラと若いかたも増えてきます。
常連さんもいます。そのなかで、マナーがおかしな人がいます。驚いたのは、絡んだタンをフロアーにペッとしたことです。始めて見た時は信じられなかったです。携帯もお構いなしで出ています。この人は、そもそも学習はしていないようなので、人が多くて席が埋まっている時は「この人は何をしに来ているんだ」といった気持ちになります。とにかく動作が乱暴で机がガタガタ鳴ったりもします。
誰か注意をするなり、司書さんに相談するか、または、わたしが行動するかと思っていました。
しかし、関わりたくない。
自己満足ですが、解決方法が分かりました。我慢です。もともと学習をしているわけではないため、長くはいません。長くとも45分ほどです。迷惑な人の解決方法のなかには時間が解決することもあるのだと思います。そして、その45分をひきずらないことも重要かと思います。
45分程度の我慢はできます。しかし、これをひきずってしまえば、何時間も嫌な気持ちです。さらに言えば、次回も遭遇するのではないかと不安にもなります。気持のうえでも無視できる力が必要です。私はこのあたりが苦手なので課題です。
「漠然とした不安」対策
しかし、社会復帰をしたいと考えています。そこで可能な限り外出を心掛けています。一番行くのは図書館です。行ってしまえば、何だかんだと2、3時間過ごしているのですが、行くまでが大変です。全てが怖いという表現が適当なのか分かりませんが、こんな感じで不安です。ですので腰が重く、家を出るのに1時間はかかります。
しかし、外出は良いことです。「漠然とした不安」対策になるからです。
「漠然とした不安」はうつ病にはつきものだと思うのですが、外出をすると、かなりましになります。これは「目の前の不安」によって「漠然とした不安」を感じられないからではないかと思っています。
例えば、家の戸締りをきちんとやったかや、自転車で出かければ、車が怖くて不安だったり、パンクをして帰りは歩きかもと不安だったりします。その不安の方が意識をしめます。
「漠然とした不安」とは、本来の不安とは違う心意的なものなので、感じなければ、存在しない不安なのだと思います。当然、リアルな不安の方が上位なのです。
以前は喜怒哀楽は一緒に感じる事が難しいのではないかと考えましたが、不安も感じられることに限りがあるのではと思います。
喜怒哀楽は共存するのか考えてみた
うつの治療のためにリーマスという薬を飲んでいます。
双極性障害(躁うつ病)の薬なのですが、まさしく、私には感情の波が来ます。
ちょっと前まで「寂しくて」たまらない状態だったのに、次の瞬間に「怒り」が湧きます。
手帳に「寂しさ」「怒り」の感情を五段階でメモっているのですが、目まぐるしく、この変化を書きなぐられる日もあります。
なぜ「寂しさ」と「怒り」なのかと思いました。「寂しさ」と「やさしさ」、または、「怒り」と「悲しみ」などは一緒に感じるときがありますが、「寂しさ」と「怒り」は交互に感じることはあっても、同時に感じることはありません。
そこで、喜怒哀楽はどうなのか考えてみました。
下記の図のように「怒り」と「哀しみ」は相反するというか、躁うつの場合、対立したこれらが交互に来て、感情の起伏の激しさを作っている気がします。
余談ですが、人と話さず20日目です。
雪かきで分かる利己的な隣人
雪かきのシーズンです。私は雪国で生活したことがあります。
雪かきは重労働ですが、一番の問題は雪を捨てる場所です。
隣家との間に小さな用水路があり、ここに雪を捨てようと思えば捨てられるのですが、公共のスペースでもあるし、かつ、「詰まるので雪は捨てないで」、と決まり事がありました。
でも、隣家の人はこの用水に雪を捨てます。でも、まあ、近所からも距離を置かれている変わり者なので、基本関わりたくないので無視していました。
しかし、すごい量なんですよね。自宅玄関前からだけでは、この量はないでしょう。
よくよく見てたら、自分の庭の雪も捨てているんです。一般的には逆で、町内の他の方は自分の庭に玄関前や道路の雪を捨てます。どうりで隣家の庭だけ雪が少ない訳です。
なにがなんでも道路の雪は自分の庭に捨てたくないまでは分かります。そのうえ、自分庭の雪も外に捨てたいとは、なんと利己的な。
人を馬鹿にする人について考えてみた
人間の特徴のひとつは「他人を馬鹿にする」事だと思う。
これは前回書いた、勝ち組が「世間には馬鹿な奴が多い」と言っているのと質が違う。
寧ろ、負け組の方が他人を小馬鹿にしている。というより、舐めてかかっている。これは性質が大変悪い。
勝ち組に馬鹿と言われても、納得できる所があるというか、まして友達なのでアドバイスとも思えます。
しかし、リアルな友達もいず、異性との交流も過去から現在に至り無かったであろう、不細工に馬鹿にされると「なんでこんな奴に馬鹿にされなければいけないの」と良い気はしない。
なにより、不細工は、馬鹿にするネタをつかむため私を監視する。重箱の隅を突くように私の欠点を監視し、多少でも勝る、というより同等(この場合それ以下と判断する)を目ざとく見つける。この行為にはリアルが充実していないので暇なのもあるのだろう。
私の良い所は、あまり他人を馬鹿にしない。どちらかと言えば、良い所を見つけることが得意だ。これはポジティブなことに聞こえるが、ネガティブな意味で、私は「お花畑人間」だからだ。
良い所の子として育ったため、世間の辛酸に触れる事が少なく、今まで恵まれていた。所謂、温室育ちである。そのため、実社会に出て、うつ病かつニートになっている。そして、この様な世間知らずは負け組のストレス発散のネタになりやすいのだろう。まあ、でも人を馬鹿にしているよりは良いのかもしれない。
バチはあたるのか考えてみた
結論から言うと、バチはあたります。
これは宗教的な意味合いでもなく、オカルト的な意味合いでもないです。
経験則から知っていることです(自分はバチがあたりました)。そして、バチをあたえるのは人だからです。
迷惑な行為をおこなっている者、モラルやマナー違反をする者、これらの人に共通していることは、「言っても分からない人」です。
ですので、当初は周りもほっておいたりするのですが、加害度合が加速していき、いずれは手が付けられなくなります。そんな時に限って、大事な取引先、職場の上司や、いまままで好意にしてくれた人に、その加害を及ぼしてしまいます。
バチのあたりかたは、大別で二つです。
ひとつは、早くにバチがあたる。
もうひとつは、遅くにバチがあたる。
迷惑な奴にバチが早くあたれば自分も気が晴れますが、実は遅くにあたるバチの方が痛い思いをします。
迷惑とは、病気みたいなもので早期治療だと被害がすぐないです。これは被害者だけでなく加害者にもいえます。
遅くにあたるバチは、もう取り返しのつかない悪意になっていることが大半です。これも被害者だけでなく加害者にもいえます。さらに、当人にバチがあたらなくとも、そのバチを子供が背負うときもあります。親御さんが主催する子供バーベキュー会などのイベントがあっても、「あの人と関わりたくないので、お子さんも次の機会に誘おこうか」となりやすいです。
つまり、直接的には分からなくとも、チャンスを失っているので、これは大変なバチがあたっていることになります。